TIME before 55

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

「宗教だからなし得るもの」とは?

僕はクリスチャンではないしなるつもりもないのですが、最近ある事情があって教会に通っています。昨日も聖書を輪読した後、それぞれの最近の体験を話すというものをやりました。

そこで出たものの中で、「僕がクリスチャンだからできたのだと思います」といった話がでてきました。そのお話とはこのようなものです。

昨日、家の近くで財布を拾った。

はじめは財布の中身を取ってやろうと思い、中身を確認したら2000円しか入っていなかった。それなので取るのをやめた。しかも中には学生証が入っていたので、住所を調べて彼に届けてあげたというもの。

本来なら交番に届けるところですが、交番よりも財布の落とし主の住所の方がそこから近かったそうなので直接行くことにしたとのこと。

良心のない人ならお金だけ取ってそのまま放置しておくかもしれませんが、彼の場合は何もせずに家に届けることまでしたというのです。彼の良心には尊敬の念を抱かずにはいられません。

彼がすごいのは欲に打ち勝ったということのみならず、人に善行をしたという点にもあるのです。

そこで彼が語っていたのは次のようなものです。

「これは自分がクリスチャンだからできたのかもしれない」

これはどういったことでしょうか?

私は特定の信仰を持ちませんが、考えてみました。クリスチャンすなわち信仰を持つものとそうでない人では何が違うのか?

それは「誰かから見られている」という意識かもしれません。

よく「神様が見守ってくださったおかげで・・・」という言葉もありますが、神様つまり特定の誰かに見られていると人はそれまでの自分よりももう一歩先に進むことができるものです。

これは宗教のみならず日常生活でも言えることかもしれません。

誰も見ていないところでは人は好き勝手にやりがちです。例えばトイレの個室や人の立ち入らない場所。こういった場所はたいがい汚れていたりするものですが、人の目に曝される場所ではなかなかそういったことはしにくいものです。

別に神様である必要は必ずしもありませんが、自分の行動が見られていると意識することは自分を律する上でも重要なことなのかもしれません。

ただそれが神や仏といった「場所を選ばない存在」の場合はいつ何時でもその意識を働かせることができるというだけで、別に行動に規律をもたせるためには必ずしもそこに頼る必要はないのかもしれません。

人間、本来は自律つまり自分で自分の行動を律して生きていくのが理想ですが、身の回りの欲に目が眩んで常日頃からそれを実践するのは難しいものです。誰かに常に見られていると意識することで、自分の中のこれまで出てこなかったものを発見してみるのも良いかもしれませんね。