元マニラ住人の青年のブログ

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

「空気を読む」 Made in Japan

Birds
日本人はある人数が集まり、議論がひとつの方向に行きだすと途端に意見を言わなくなる行動を取り始める。また良かれと思って違った行動を取ると諌められ自制を強いられる。俗にいう「空気を読む」というものだ。

これは日本の「伝統文化」なのかもしれない。周囲も自分と同じ思いを共有しているのか気になり、自分が突飛な意見を言い出していないか気にしてしまう。自分が他人と違う意見を述べていれば、コミュニティから追い出されてしまうのではないかという強迫観念に駆られ、他人の中に溶けこむことで一体感・安心感を得ようとするのだ。

その結果、何か自分一人でやろうとする気がなかなか起こらなくなる。自分だけ違うことをやっていれば他人から後ろ指を刺されるのではないかと怖くなって、新しく一歩を踏み出すことができない。

確かに多数決という方法が意思決定で尊重されるのは一般的ではあるが、だからといって違う意見・見方をその集団に持ち込むのは悪いことではないし、新しい風を吹きこむことだってある。

ところで2011年福島第一原子力発電所で起こったメルト事故の後反原発デモが官邸前や東電前で行われ、次第にマスメディアの注目も集め、デモは20万人近くにまで拡大したと言われている。

原発事故が起こった時も原子炉内でメルトダウン(炉心溶融)が起こっていると考えている人がUstream(ネット上で生放送番組を配信できるサイト)やYouTubeで情報を発信しても、信じている人は少なかったし、いたとしてもなかなか声を大にしていうことは憚られただろう。

しかしそれは後々に間違っていたことが発覚した。人々はそれまでの考えを捨て、官邸前に集まった。そして政府が原発の建設凍結を発表すると、目的は達成されたと感じ、多くの人々が官邸前から消えていった。そうなってくると一人また一人と人々は消えていき、残っている事自体がアウトサイダーの行為のようになってしまった。つまり「空気を読んだ」のだ。これが連鎖し運動は静まっていったのではないだろうか。

こういった場合、それぞれの人々は周囲の反原発という思想に共鳴して動いていたのだが、自分の考えとして運動を捉えられていたのかどうかはわからない。もし、自分なりに原発への反感があったのなら、いくら政府が政策を推し進めようとも納得するまで徹底的に動いていくだろうが、人数が少なくなると次々にその場からいなくなっていった。結局は日和見の運動に過ぎなかったのではないか、あるいはそもそも表現の自由をフル活用できていない所に、日本人としての問題点があるように思える。

日本では表現の自由が保証されているのに、自分の本音を集団に対して打ち明けたり、徹底的に討論するような状況がない。例えばそれは言動にも現れていて、よく「正直私は~」や「実際~」のような言い回しがその最たるものと言える。この言葉には日々の言動に対して自制心を潜在的に働かせていることを表す言葉なのではないだろか?人々が本音で向き合わず、自分を装いながら生きている。

しかしながら、周りとの人間関係や「空気」にとらわれ自分の考えとは違うことを口にしたり、周りに迎合することがある。これは本当に奇妙なことで、その行動は信頼出来る友達関係にまで及んでいることが多い。それは自分の友達にもよくあることなのだが、社会的に高い地位の人々や欠点を指摘することが避けられる人々に対する意見を口にする場合などはよくそういった言葉は使われている。

そもそも人間とは自由で他人から干渉される生き物ではないのに、そういった遠慮をするのはどうしてだろうか。自分だけ安全地帯に逃げ込んで、他人が自分と同じ意見を持っていることがわかるとそこに乗っかってあたかも最初から自分がそう思っていたかのようなフリをする。誰か最初にその話題を切り開く人物がいなければ、自分から動くことができないようになってしまっているのだ。こういった主体性のかけらもない人は本当にたくさんいて、これは現代社会の大きな問題だろう。

ここから考えられるのは鈍い危機意識と日和見だ。被害を受けるまでは黙っていて、いざ自分に危害が及ぶようになると自分の感情を表に出すのだ。もちろん歴史的背景やメディアでの扱われ方も大きく左右していることは明らかであるが、あそこまでは大きくなることはなかったに違いない。しかしながら、自分と同じ「日本人」が危険に晒されて初めてことの重大性に気が付き、動き始めるのは日本人の現状認識の甘さつまり「平和ボケ」を象徴している。