元マニラ住人の青年のブログ

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

ネットはコンテンツ重視から個人評価型へ移行するのか

Facebook's Secret Message to Me

岡田斗司夫氏のブログ「岡田斗司夫なう」の【レポート】ネットビジネス成功の鍵は「キャラクター」と「関係性」でネットコンテンツの移り変わりについての興味深い記述があった。少し長いが引用する。

ところが、現在それが廃れつつあって、もう今ブログ書いてる人はあまりいなくなりました。どういうふうになったのかっていうと、フェイスブックの文化やTwitterやLINEの文化に流れています。
これが何を意味するのかというと、ブログ文化のときは言ってることの内容が大事だったから、例えば映画を観たんだとしたら、その映画に関して語るとか論じるとか、その意見を読んだみんなが「ほう、なるほど。面白いな」と思うようなものが必要だったんですね。

~中略~

つまり、フェイスブック文化っていうのは、ブログ文化が“コンテンツ型”だとすると、完全に“キャラクター型”なんですね。一口にネット社会といっても、僕らが今体験しているネット社会自体もこんなふうに変わってきちゃってる。コンテンツ主導型からキャラクターの主導のほうへゆっくりと切り替わってて、ブログ文化はほぼもう滅びつつある。

要するに岡田斗司夫氏は何が言いたいかというと、以前はブログ中心の「コンテンツ重視」だった流れが、ソーシャルメディアの登場によって個人が重視される傾向が強くなりコンテンツ自体よりもむしろ「誰が発信するか」に重きが置かれるようになってきたということだ。

つまりブログであれば、池上彰氏が書こうが高校1年生がアメブロで書こうが、コンテンツの価値が評価されれば、高校1年生の池上彰氏を超える可能性はあったよ、ということ。しかしFacebookTwitterのような個人が特定されフォロワーが発生するようなタイプの発信型の場合、そこではコンテンツの価値よりも個人の価値のほうに注目が集まりやすいと。

確かにFacebookは原則実名で顔出しをしている人もかなり多いことから、そこで有用なコンテンツを定期的に発信し続ければ、ある程度下らない内容をたまに投稿したとしても、それも「価値のある人間の書いた文章」ということで、一般人が書くよりは評価されるかもしれない。

彼の理論を更に進めると、評価されている人々が書けば多くの確率で何を書いても評価される。一方で注目を浴びていない人がいくら発信をしても、それは埋もれたままになる可能性が高くなるということだ。こういった力が働いている場合、当然現実世界である程度有名な人物(政治家、評論家・学者など)の発言が注目され、そうでない人々は余程の努力をしない限り発言力を持つことはできないかもしれない。

しかしここで原点に立ち返ってみたい。そもそもブログとソーシャルメディアの違いとは何だろうか。Facebookはかなりの高確率で個人を特定できるから別として、Twitterで本名・顔出しの両方を行なっている人々はごく少数だし、殆どは匿名で発信をしている。

そうなるとそれまでのブログ時代と現在のソーシャルメディア時代で、発信者の状態(公開性)に大差はないことがわかる。ブログが個人の主流メディアだった時代であっても、顔出し・本名表記を徹底している人々は一部であったし、TwitterUstreamニコニコ動画であってもそうだ。事実、現在のソーシャルメディア時代になっても匿名性はかなり存在している。

岡田斗司夫氏がどれだけネットでの個人発信についてご存知なのかどうかは不明だが、個人による自らの存在の「晒し方」に大差は見られていない現状に鑑みると、同氏の分析はやや説得力を欠くものになる。もちろん間違いではないだろうが、断言できないのは事実だ。


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岡田 斗司夫
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