TIME before 55

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

価値観の違いを乗り越えよう - 若者と年長者の共存

go Dodgers go!

 私は大学や学生団体、NGOを通じて多くの同世代の仲間と触れ合ってきた。彼ら彼女らは社会的には無理だといわれるようなことも、自分ひとりであるいは仲間と協力をしながら作り上げていくような創造的な人々だった。しかし彼らは決して特別な存在ではない。確かに他の人よりも人一倍努力をし自分の能力を適切に見分ける能力は抜群に秀でている人々だが、こういったことは全ての若者が共有していることだ。

 彼らは所属という肩書きがあるからどうしても自分とは全く違う世界の住人というような印象を持ってしまうが、実際に触れ合ってみると彼らは何ら特別な存在ではない。確かに高校や大学で優れた教育を受けているのは確かであるが、それが必ずしも彼らの立場に影響しているとは思えない。何が彼らを光らせているか、それは若さだ。斬新な発想力で世の中の常識に立ち向かっている姿が格好良く見えるのだ。

 だから逆に、肩書きだけで活動をしてるような学生は評価されることが少ない。自分自身のことを言わずに組織のことばかりを語りだす人は大抵面白くないし、人間的な魅力にも欠ける。組織よりも自分の若さを活かして何事にもぶつかっていく姿勢が大事だと思うし、それでこそ人間として生きていて意味があるのだと思う。

 そもそも日本社会の構造では儒教的な年功序列が発想の根源となっているから、例えば若い人と年長者がいれば後者の意見が優先される。なぜなら年齢が高い人のほうが経験があるしそれまでの人生での失敗も当然若者より多い。だから多くのことを学んできている存在としての地位があるのだ。しかしそれでも我々は意見を発信し続けるのはどうしてだろうか。

 私の場合の例を挙げてみよう。元々社会に対する反抗心が強いので、ネットメディアに関わらず現実世界でも思ったことはなるべく口に出す。例えそれがデリカシーの無いことだとわかっていても、何にでも口を出さずにいられないので我慢できずに言い出してしまうのだ。そもそもこの行動にどのような発想が働いているかというと、それは「自分はいつ死ぬかわからない」という考えだ。これは少し哲学的な言い方になてしまったかもしれないが、要するに今の自分を出しておかないと、そのうち言えなくなる時期が来るかもしれないということだ。

 何も経験に裏付けられたわけではないが、おそらくApple社のCEOだった故Steve Jobs氏の生き方に触発されたのは間違いないだろう。彼は毎日鏡に向かって、もしその日が人生最後の日だとしてやりたい事は達成できたのかと自問するのだろうだ。この習慣は彼が胃がんの手術から復帰してから始まったそうだが、自分の毎日を振り返ることの重要性を表していると思う。ここまではしないにしても、自分のひとつひとつの行動をしなくて後で後悔しないように、思ったことはすぐに口に出し、やろうと思ったことはなるべくやることにしている。そうすることで心のモヤモヤがなくなるし、清々しく毎日を過ごすことができる。これはとてもオススメだ。

 話が脱線してしまったので元に戻るが、自分のやりたいことを我慢せずにやっておきたいという心から筆者は様々な媒体を通じて社会に自分の意見を発信してきた。素人だから若造だからと馬鹿にされることはわかっていても、誰か一人に認められるならば幸せだと思って取り組んできた。おそらくこれは多くの若者にも通じているのではないだろうかと思う。そうでなければ学生団体で活動して世界中の貧困をなくそうなどという理想を掲げる若者は出てこないだろうし、何よりも私のように若いうちから執筆活動を始める人も皆無に等しいに違いない。

 また若さがペナルティになるからこそのやりがいを感じる人もいるだろう。社会から反感を抱かれることそのものに良さを見出し、ひたすら注目を集めたい人・批判されたい人。実は筆者はこの要素も持っているのだが、これには社会に自分の存在を認知して欲しいという感情が働いている。つまり受け入れてもらわなくても良いから、生まれたからには自分がこの世にいたということを形で残しておきたいのだ。あるいは形でなくてもいいから、誰かの記憶の中にとどめておいて貰いたい、「そういえばあんな奴がいたな」くらいでもいいから、自分が死んだとしてもその人の記憶の中で生き続けるような人間でありたいのだ。

 全ての人々は能力が高い。それは平成の時代に限らずいつの時代もそうであっただろう。しかしながらいくら能力が高くてもその人の行動への意志・意欲が伴わなければ高い能力も発揮される機会は減っていく。それは年齢を重ねるに従って、現実世界を知り行動に自ら制限をしていくようになるからだ。別にそれが悪いことだとは言うつもりはない。老いていくに従って人間は社会の実態、人間関係の理想の姿を知っていくのだろう。そこで自分と他人への悪影響が最小限になるように努めていく。すると自然と挑戦心が失われ、現状維持が最も無難かつ賢い選択肢であると判断するようになってゆくのだ。

 それに対して純粋な理想を強く持ちながら生きている若者は社会のルールには縛られない発想ができる。それはいきなり社会に出された時に不利に働く時もあるだろうが、それによって行動力というのは担保されている。そしてその理想に従って生きる若者は時に社会の常識を知り尽くしている上の世代と衝突することがある。

 そもそも若者とは世の中に立ち向かう存在なのではないだろうか。世の中とはどういった人々で構成されているかと考えると、大半が若者よりも年上の人々だ。そうなると若者とは年上の人々に対して何かしらの反応を示す/返す存在として定義されることができよう。我々若者はなにかひとつのことを考えている時点で上の世代とは完全に意思を共有していないのだから、発想の時点で世の中に対して新しいものを提供していることになる。

 確かに常識を重視し変化を望まない人々にとっては若者というのは目の上のたんこぶだろう。組織運営をする上で最も重要なのはチームが一丸となってひとつのことに取り組むことだ。その秩序が若者の理想によって壊されるとなってはいけないという危機感から、抑えこもうとする時もあるだろう。

 もちろん若者より上の世代全てが変化を望まないとうつもりは毛頭ない。しかしながら世の中の常識(常道)を知っている世代は新しい案件が出てくれば、自分が知識を持っているという優越感が適切な判断を阻害してしまう。自分が知らないこと・経験したことは成功するはずがない、という発想に陥ってしまいがちだ。そうなるとそれまでの当たり前を覆すような提案に対しては賛同したがらなくなるのだ。

 変化というのは時に危険性も伴う。好転するときもあれば事態が悪い方向へ動いていくこともあるだろう。なぜなら変化というのは経験したことの無い(つまり先行事例がない案件)に対して起ころうとするもので、何がどうなっていくのか予想ができないために人々の間で衝突が起こることがあるのだ。

 しかしそういった世代間の価値観の差を埋める方法はいくつかある。

 まず必要とされるのは互いに提案のバックグラウンドを学び合うことだ。つまりなぜそういった発想に至ったのか、どのようにしてその答えが導き出されたのかを知るのだ。その時に相手の「無知」を積極的に受け入れ、むしろ価値観の違いを楽しむ姿勢が求められる。

 そもそも人間ひとりひとりの価値観は全く違う。同じ環境で長く過ごした人同士だって考え方は様々だ。だから生きた時代が違う人間同士が口を開けば、必ず分からないことは出てくる。その分からないことをそのままにはせずに好奇心を以って知ろうとする姿勢が大事になってくる。それは世代に関係なく保守的な人に求められる。自分が知らないことを「あり得ないこと」として処理するのではなく、新たな世界がそこに待っているのかもしれないという希望を持つことが重要なのだ。

 自分の知らないことを認識すればその分また新たに学ぶ余地があるということだ。決して現状に満足せずにがむしゃらに追い求めていく準備があれば乗り越えていけることだろう。そのようにして相手の考えていることを理解できれば、相手が考えている道筋で自分の考えを伝えることができるようになるはずだ。それこそ世代間の差を埋めていくのに必要なことだと思う。

 こういった場合により多くのことを吸収しようと求めなければいけないのは若者だ。年上の世代は昔は自分達も若者であったから、抱いている理想や希望というのは少しは理解できるものだろう。しかし若い世代は年上の思考領域に立ち入ることはなかなか難しく、どういった過程を経てその考えに至っているのか理解しようと努めることが求められる。

 しかしながらいずれにしても世代間での価値観の違いを乗り越えていくためには双方が理解の姿勢を作らなければ話は平行線のまま終わってしまい、ただ対立の種を巻くだけで終始してしまうだろう。これはやや大袈裟な表現かもしれないが、無意識のうちに相手に「自分とは違う」という感情を抱いた途端、理解の速さは原則してしまうものだ。

 どのような年齢であれ、同じ人間であることに変わりはない。そういった本来は近いはずの存在である人たちとどのように思いを共有していくか。これができるかできないかで若者たちの行き先は全く変わってくるだろう。