元マニラ住人の青年のブログ

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

地震から2年経ったハイチの現状 (2)

Terremoto ad Haiti
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解決されない住宅危機
水曜日の2周年記念日の前日、マテリは崩壊した国家宮殿を横切る小さな舞台に登場し、彼の両側を取り囲むシャン・デ・マルス(Champ-de-Mars)のテントの2万人の住人はカナダ政府からの援助で定住できることを演説した。1000人ばかりの謙虚な住民群衆のうちの約半数と見物人はその知らせを歓迎したが、その一方で他の半数は沈黙しているように見えた。
ひとつずつ、大統領は国際移住機関(IOM)からの支援により定住住宅に最近済むようになった住人の6つのキャンプの名前を挙げた。誇りを持って彼は「シャン・デ・マルスは7つめの定住キャンプになるだろう」と宣言した。
彼は他の700のキャンプが加わる予定であったことは言わなかった。
Enock Jestable39歳は現在ポルトープランスのDelmas地区に2年間住んでいる。
「マテリは人々をテントの下に住まわせるようにすると言ったが、俺達を見てくれ、まだここにいるんだ」とJestableは言った。
マテリガ水曜日に演説した時、10の地域から集まった数千人のハイチ人は、全般的に十分な住宅と住宅用地が不足していることの解決を求め近郊をデモ行進した。その中にArtibonite地域から大統領にメッセージを届けるために来た時給農家のJoseph Josué40歳がいる。
「我々にとって何も変わっていない。我々は島で働くための資源となる手段を持っていない。自分の中の農民に答えを求めてみるのです」そしてマテリの政党の名前を出し、「やれやれ、我々は農民なんだ、助けてくれよ」と言った。

度重なる政争
マグニチュード7.0の地震から2周年の記念式典において、木曜日に商店は閉まり、国中の人々が教会の式典に出席した。夜には犠牲者の遺族が、地震から1週間後に彫り出された特定不能の数千の遺体を1時間慰霊するために、首都の外れにあるTitanyenにある集団墓地での記念行事に出席した。
数百人の出席者の中には、全大統領のビル・クリントン(Bill Clinton)と、大きな時計とみなされている以前の独裁者ジャン=クルード・ディバリエ(Jean-Claude Duvalier)が選ばれた。2010年1月12日に地震が起こった時刻のちょうど5分前に決まったのだ。
マテリも同様に記念行事に出席し、墓地にレースを供えた。彼の名前を書いた出来合いのプラカードを持っている少数の人々も群衆の中にはいた。
しかし多くの人々はニュース番組をラジオで聴き、国際会議に参加している専門家は住居を求めて通りをデモ行進しながら、政府の成功のための役割と遅々とした復興の失敗を話し合った。
草の根の支持団体「Bri Kouri Nouvèl Gaye (Noise Travels, News Spreads)」は映画を映しだし、木曜日にポルトープランスのキャンプでどれだけ復興資金が費やされたのかについての議題で話し合いをする主導をしようと計画している。
「本当の犠牲者と共に活動をし、他の離れ離れになった人々と各々の体験話と未来に向けての展望を説明・共有することができるようにすることが計画だ」「本日、我々は人々が疎外感や無視されたことを感じた政府がすすめる復興の過程の方法における彼らの怒りについて話す人々と会う予定だ」と、団体の指導者であるEtant Dupainは言った。
水曜日に、50人以上のハイチ人と外国人によって書かれた地震とその後を形作る政治的・社会的力についての新著の発表のために、ハイチ国立大学に学生と享受が会合を行った。
「我々は皆、長く続く社会的問題を抱えている」「地震の起こる前から存在していた住宅問題という構造上の問題を抱えている」と、昨年の不備のあった選挙において出馬したBiotは言った。