TIME before 55

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

空気を読むという日本の「伝統文化」

Announcing the results

日本では会議など人が集まって意思決定をする場での空気を読むことが当たり前になっている。もはやこれは日本の「伝統文化」なのかもしれない。

空気を読む人々は周囲も自分と同じ思いを共有しているのか気になり、自分が突飛な意見を言い出していないか気にしてしまうのだ。また自分が他人と違う意見を述べていれば、コミュニティから追い出されてしまうのではないかという強迫観念に駆られ、他人の中に溶けこむことで一体感・安心感を得ようとする。


その結果、何か自分一人でやろうとする気がなかなか起こらなくなる。自分だけ違うことをやっていれば他人から後ろ指を刺されるのではないかと怖くなって、新しく一歩を踏み出すことができない。

確かに多数決が意思決定で尊重されるのは一般的ではあるが、だからといって違う意見・見方をその集団に持ち込むのは悪いことではないし、新しい風を吹きこむことだってある。

多数決はあくまで意思決定の際に用いられ、議論の過程では多様な意見が出てしかるべきなのだ。例えそれが他人の前言を覆すことであったとしても集団に寄与するものであれば積極的に発言されるべきだ。

しかし集団の利益よりも自分の立場を守ることを考える人は自分から意見を言い出そうとせずに、周囲に迎合し丸く収めようとする。聞こえはいいが、実際には何もしていないのと同じである。例えその人は会議に出ていたとしても、それは参加しているに過ぎず、参画しているわけではないのだ。

ところで2011年福島第一原子力発電所で起こったメルト事故の後反原発デモが官邸前や東電前で行われ、次第にマスメディアの注目も集め、デモは20万人近くにまで拡大したと言われている。これはソーシャルメディアの影響も受けた大衆運動/社会運動として拡大し政府の政策にも大きな影響を与えた。

しかし実際には原発事故が起こった時も原子炉内でメルトダウン(炉心溶融)が起こっていると考えている人がUstream(ネット上で生放送番組を配信できるサイト)やYouTubeで情報を発信しても、信じている人は少なかった。あるいはいたとしても声を大にしていうことは憚られただろう。

それは後々に間違っていたことが発覚し恥をかくのが嫌だったからかもしれない。しかし次第に原発事故によるメルトダウンが本当のことだとわかると次第に官邸前でデモをする人々は増えていき、多くの人々が参加するようになった。

そのようにして世論が原発の危険性を強調する風潮になると、今までは言い出せなかった反原発の思いを訴えてみようという気が多くの人々の心のなかに起こり、多くの市民が官邸前に集まった。

そして政府が原発の建設凍結を発表すると、目的は達成されたと感じ、多くの人々が官邸前から消えていった。そうなってくると一人また一人と人々は消えていき、残っている事自体がアウトサイダーの行為のようになってしまった。これが連鎖し運動は静まっていったのではないだろうか。

こういった場合、それぞれの人々は周囲の反原発という思想に共鳴して動いていたのだが、自分の考えとして運動を捉えられていたのかどうかはわからない。もし、自分なりに原発への反感があったのなら、いくら政府が政策を推し進めようとも納得するまで徹底的に動いていくと思うのだが、人数が少なくなると次々にその場からいなくなっていった。

結局は日和見の運動に過ぎなかったのではないかとも思えてしまうが、表現の自由をフル活用できていない所に、日本人としての問題点があるように思える。

そもそも日本では表現の自由が保証されているのに、自分の本音を集団に対して打ち明けたり徹底的に討論するような場がない。政治意識の低い国民性も影響しているかもしれないが、対立をさけるために自分の政治思想を言い合って議論することは殆どない。

人間とは本来自分の考えを曲げてでも言葉を発することは少なく、本音を言い合うことが理想とされている。しかしながら周りとの人間関係や「空気」にとらわれ、自分の考えとは違うことを口にしたり、周りに迎合することがある。

そもそも人間とは自由な存在であって他人から干渉される生き物ではない。一度対立が起きそうになると自分だけ安全地帯に逃げ込んで、他人が自分と同じ意見を持っていることがわかるとそこに乗っかってあたかも最初から自分がそう思っていたかのようなフリをする。

つまり誰か最初にその話題を切り開く人物がいなければ、自分から動くことができないようになってしまっているのだ。こういった主体性のかけらもない人は本当にたくさんいる。これは現代社会の大きな問題だ。

ここから考えられるのは、被害を受けるまでは黙っていて、いざ自分に危害が及ぶようになると自分の感情を表に出すという鈍い危機意識だ。もちろん歴史的背景やメディアでの扱われ方も大きく左右していることは明らかであるが、意識の低さを伴わなければあそこまでは大きくなることはなかったに違いない。