元マニラ住人の青年のブログ

頭良くないし機転も利かない。でも夢の大きさは誰にも負けない。

誤解される上下関係 ~若者の視点で社会を見る~



「パラサイトシングル」が社会的に問題視され、若者が独立することが求められている。そこにはもちろん経済状況や発育環境が大きく反映されていることもあり、様々な要因が絡みあっているといえる。しかしながらそれ以外に、自分から抜け出したくても枠にはまらなければいけない場合は多くある。自分の本音を出してはいけない場合がある。それが年長者との上下関係だ。確かに上下関係は儒教のもたらした素晴らしい文化だと思うが、それが誤った解釈のされかたをしているケースを私は多く見かける。それが若者に個を発揮させない、ひいては主体性を失わせてしまう結果になっているのではないかと思う。

例えば、職場や部活動などで目上の人に敬語を使う場合、それは「決まり」として行なっている場合が多い。一旦その場を離れて家庭に入れば、その人は敬語を使ったり使われることはない。それは家族というコミュニティに入ったからだ。つまり「目上の人には敬語を使う」という決まりあるいは慣習によって、それをしているに過ぎない。だから、酒宴の席では無礼講で普段のような恭しい態度をとる必要がなくなることもある。例えば仕事場である上司のことを嫌っていても敬語を使わなければならない。これは「決まり」だからだ。あくまで尊敬しているからではない。つまり敬語はその人の感情を無視して使わなければならない場面もある。

確かに、必ずしも言葉と感情は一致するわけではない。いくら敬語を使っていても、尊敬をしていない先輩はいるし、同じように敬語を使っている人でも他の人の何倍もの敬意を払っている場合もある。それは人間である以上ごく当たり前な感情だ。しかし多くの人々はそれをタブーとする。「敬語を払っていること=尊敬している」という方程式を作りたがる。その方が人間関係上、円滑に付き合いができるし、逆に敬語を使われた場合でも「自分は尊敬されている」という錯覚に陥ることで自己満足できるからだ。

しかし時折それを理解できない人間もいて、上の立場になっただけで自分は偉いと勘違いする。その人が偉いのは仕事という枠の中だけであって、一度社屋をでればただの一般人なのだ。だから仮に電車の中である企業の社長と学生が口論になったとしても、学生は「社長よりもまだヒラ社員と小競り合いになった方がマシだったなぁ」などというふうにアホな発想をすることはないのである。そういった人は大体と言っていいほど自分より目下の人間をいじめる。それによって若い人々が虐げられ、可能性を奪われてしまっている。「年長者の意見が絶対」の風潮が形成され、同じ人間として若者の意見にはろくに耳を傾けてもらえなくなる。こういった事態が築かぬうちに現代日本では起こっている。これを打破しなければ、何時まで経っても古い体質を引きずるままの国で、進歩することはなく文化は自壊していくだろう。

ここで一番の問題点は何かというと、この敬語文化において、立場を形成する論拠がないことである。実力主義の社会であれば、立場形成の論拠が業績であるが、この文化においてはそれがない。つまりどうして偉いのかがわからないまま従わされている状態が続いているのだ。これは一番恐いことで、「よくわからないけど、従わないとダメらしいから付いて行く」風潮を生み出していく。そうしていくと社会の空気に流され、主体的な考えを生み出せない人々が増え、気がついたら体制側のなすがままにされている状態が作られているに違いない。いや、今既にその状態ができているのではないか。